揚雲雀なのりいで
蝸牛枝に這ひ
神そらに知ろしめす。
すべて世は事も無し。
「ゴカイの採餌行動」(データ番号: momo051123un01b) を見て、なぜか思い出した。
上の詩で描かれているのは春の光景である。どこかけぶったような淡さと、清涼な空気。でも、この映像の季節は夏。
後に聞こえるセミの声。そしてゆっくりとした沙蚕の動き。水の底まで、強い光りに照らされて、どこまでも陰り無く、くっきりと。ただ、揺れ動く水の影だけが、そこに媒質のあることを知らせる。
夏の昼。光りは強く、にもかかわらず、真上から降り注ぐので、地上にはほんのわずかの影しか作らない。地面も、そこに立つ生物も非生物も、空気まで、全てが光をおびて熱気につつまれる。風が吹いて葉を動かし、陽炎が空気を揺らす。道を行く動物も止まっているかのように動き、どこかこの世の者ではない。
似た感じを絵で見た事がある。京都の絵描き若冲の絵か。たしかにそれを見たのも夏だった。その写実性にもかかわらず非現実的で、矛盾する感覚に目眩がした。絵には影がまったくなかった。影をもたないニワトリが、隅々まで詳細に写実された雄鶏が、動きの一瞬の中に、鮮やかな花の木の下でポーズをとる。遠近の感覚とともに時間の感覚が微妙にゆがんでいく。
夏が、この世のものではないように感じられるのは、なぜだろう。夏休みがあるからだろうか。いや、夏が、この世のものでないから、夏休みがそうなのか。どうして、夏休みに海で遊んだ記憶は、あんなにもはっきりとしているのだろう。昨年の記憶も20年前の記憶も同じくらい鮮やかで朧げだ。皮膚が水や風や温度も覚えている。しかし、記憶はエピソードではなく、一瞬の風景だ。動画ではなく静止画のような。では、音は? 音は流れている。やはり蝉の声か。エンドレスに繰り返される蝉の声。
映像では、最後にゴカイが一瞬の動きで、隠れ家へ身を隠す。この動きが、私の眼を覚まして現実に連れ戻す。
追記:冒頭の詩は上田敏の訳で知られるローバート・ブラウニングの詩の一節。全編は以下の通り。
時は春
日は朝
朝は七時
片岡に露みちて
揚雲雀なのりいで
蝸牛枝に這ひ、
神、そらに知ろしめす。
すべて世は事も無し。
(漢字の読みは、(日は)朝/あした、揚雲雀/あげひばり、蝸牛/かたつむり。)
藪田慎司(帝京科学大学アニマルサイエンス学科)
2006-06-16