「すばやく移動するユキミノガイ」(データ番号: momo040110lb01b)を見ていて、一つ不思議に思う事がある。それは移動方向の制御は行なわれているのだろうか?と言う事だ。彼らは移動の時に、気合いを溜めているかのように貝殻を拡げ、それを急に閉じる事で吐き出される水の勢いを利用して移動するらしい。噴出口は二枚の貝の蝶番部分の左右にあるらしく、確かにこの映像でも貝は右へ左へ吹き飛ばされているかのようにコロコロと移動している。でも、私がこの映像から読み取れる貝の意志(そのようなものがあるとしてだけれども)は、「ここから移動したい」というものだけで、この行動が「どこか特定の場所に行こう」とするためのものには見えないのである。まるで、彼らの世界は「ここ」と「ここではないどこか」の二つしかないようだ。
「ここではないどこか」に行きたいっていうと、なんだかロマンを求めて旅立つかのようだけれども、実はこの行動は捕食者から逃げるためのものらしい。身近に危険が迫っているのなら、行き先になど構っていられない。ならば、移動方向を制御していないとしても納得できる。「逃避」で検索して出てくるもう一つの映像の
「音叉によって引き起こされるサガオニグモの逃避行動」(データ番号: momo051027es01b)でも、取るものも取りあえずジャンプしてその場を離れようとしている。ユキミノガイの「移動」というのは、どうやら私たちが「移動」と言う言葉からイメージするものとは少し違うものらしい。
と、ここまで書いてきてまた別の不思議に気がついた。なぜ、私は「ここではないどこか」にロマンを感じるのだろうかしら?現況に特段大きな不満を抱いているわけでなし、自分がどこかに行ってしまいたいと思っているのではなさそうだ。と言う事で更に考えると「ここではないどこか」に行きたいと思いがちなのは思春期じゃないかしらんと言うことに気がつく。ということで、すっかりオジサンになってしまった私が忘れかけている、若いとき特有の気持ちを思い出させてくれる言葉が「ここではないどこか」で、それでロマンチック!と感じるのかもしれない。
じゃあ、なぜ思春期に「ここではないどこか」に行きたくなるのか。それはもう親から逃げ出したいの一途だからだろう。そのものずばり、Anywhere but hereと言う映画では、スーザン・サランドン扮するエキセントリックな母親の、その娘であるナタリー・ポートマンに対する強い影響力と娘の自立が描かれているらしい(私は見た事が無い)。
もちろん親は捕食者ではないのだけど、でもいつか子供は親から逃げ出したくなっちゃうんだなあ。。って、何が悲しくて私はユキミノガイを視てこんなことを想っているのでしょうか。
中田兼介(東京経済大)
2006-10-27